南部江戸鉄瓶とは
 
高岡鉄瓶は美術品として高い評価を受けています。尊重されている高級鉄瓶の「龍文堂」、「亀文堂」、「蔵六」、「大國」の当時の優れた作品を現代の技術で、新たな趣向を凝らした鉄瓶として甦らせました。
選りすぐった名工達が、型取りから始まり、鋳造、仕上げ、象嵌など各工程に一流の職人を配し作り上げました。
鉄瓶の重圧感、一つ一つの紋様が表現するやすらぎを楽しみ、感じていただける作品です。


南部江戸鉄瓶説明明和元年(1764年)頃、初代龍文堂 四方龍文が、京都で初めて蝋型鋳造によって鉄瓶を造ることを創案したことが、「龍文堂」のおこりと言われています。(「龍文堂」を名乗り始めたのは、2代目龍文堂 四方安之助の頃から)
安之助は「蔵六」鉄瓶の作者として名高い秦蔵六や、「亀文堂」の創始者である亀文堂正平などを弟子に抱え、どちらも蝋型鋳造によるきめの細かい細工の鉄瓶を作って高い評判を博していました。
龍文堂」の鉄瓶の名声は、明治・大正・昭和初期にわたり日本中に伝わるようになるが、蓋の裏に「龍文堂」と名前だけを彫った贋作が数多く世間に出回ることとなりました。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の文中に、このような一節があります。
「この様な時には龍文堂の松風の音を聞いて茶を喫するが、最高の贅沢」以上のことから、当代における高級な鉄瓶の代名詞として、いかに「龍文堂」の名声が高いものであったかを伺うことができます。


南部江戸鉄瓶説明湖東地方には「日本亀文」との銘のある鉄瓶が残っています。これは近江・能登川に住んでいた波多野正平の作であって、現在も美術品として高い評価を受けています。
初代亀文は家業の醸造業を継がず、京都の龍文堂四方安平の弟子となり、のちに独立しました。豪放磊落、風雅を志す文人肌の芸術家で、酒を好み、家計をかえりみることがなかったと言われています。
また、頼山陽の教えを受け、またその子の頼三樹三郎らの勤王の志士との交友があったため、安政の大獄にかかわり、幽閉されたことがありました。元治の兵火で家を失い、近江信楽の代官多羅尾氏を頼って身を寄せ、のちに日野に移り、最後には能登川に居を移しました。それはこの地の山水をたいそう好んだためであると言われています。
初代亀文堂の作として有名なものは、江戸湯島の聖堂の飾りに使用した72個の銅器です(現在は所在不明です)。いまも鉄瓶・茶釜・火鉢・文房具などは美術品として尊重されています。
明治25年(1892年)に初代亡き後、3代まで鉄瓶を中心に高級蝋型銅器作品が制作され、昭和初めには大阪にも工場を作り、小物から大型銅器まで高級な銅器を盛んに製造しています。その後、昭和20年代に4代目が後を継ぎましたが、当時は高級な鉄瓶の需要が殆どなく、制作は絶えることとなり、亀文堂もその歴史を閉じてしまいました。


南部江戸鉄瓶説明
「大國」は、大阪で代々続く鋳物職人の家であります。江戸時代には大砲を鋳造していた記録があり、江戸末になると、大砲だけでなく、茶釜を製作するようになったと言われています。
明治時代、「大國柏斎」の代になると、茶の湯釜だけでなく、新たに鉄瓶を製作するようになりました。これが大國鉄瓶のはじまりであります。
大正13年(1924年)には、パリ万国装飾展に出展して1等を受賞。当代きっての名人と謳われるほどの名声を獲得しました。
その息子である「大國寿朗」は、明治19年(1886年)、大國栢斎の長男として誕生。栢斎に師事し、多数の茶釜や鉄瓶を製作。新たに鉄瓶の意匠に煎茶趣味を取り入れ、それまでに無い作品を創造しました。
特に好評を博したのは、蝋型鋳造による花鳥風月や漢詩を施した鉄瓶であり、数多くの作品が作られています。
また、寿郎の作った鉄瓶には、「大國」「寿郎」の角印の他に、「春霞堂」の銘が入ったものが確認されています。
 
南部江戸鉄瓶説明
南部江戸鉄瓶説明